すいの読書ノート

読書ノート、感想置き場

儚い羊たちの祝宴 ネタバレ/感想

このブログはネタバレや解説を目的としているわけではないのでその辺は省いて私の感想だけを垂れ流すブログである。

 

儚い羊たちの祝宴

 

元々氷菓をアニメで見て、気になって原作小説を買った時に米澤穂信作品と初めて出会った。氷菓はアニメの雰囲気ももちろん好きだったが、小説ならではの解釈の余地がある部分がしっくりときて大好きな一冊である。

 

ミステリーの面白い本を探している中でいろんなサイトで進められていたのが『儚い羊たちの祝宴』だった。短編ということもあり本当にラストですっきりするのか疑いながら読んでいったら面白いほどすっきりした。「オチ」が考察の余地がある作品も綺麗に落ちる作品も両方好きな人間なので、ラストが気持ちよくはまっているこの作品も好きであった。

 

身内に不幸がありまして

 村里夕日という使用人の手記から始まる作品である。この話で好きな部分は夕日が使用人という立場に誇りをもち、使えている丹山吹子お嬢様にも敬愛の念を抱いている部分である。しかしこの場面があることによって後半への衝撃のフラグが立っている、ともいえる部分である。純粋に慕っている夕日が可愛かった。ミステリーなので夕日が憎しみを抱いているんじゃないかと邪推もしていた分、反動で可愛く思えた。人が死ぬ作品の中で純粋に使用人が主人に対して敬愛している場面は少ない気がしているので新鮮さも感じた。最後の吹子の述懐は衝撃があった。特に夕日に共感している人はより大きな衝撃を感じると思う。夕日の感情を切り離して吹子に対してずっと懐疑的に思っている人は納得の展開だと思わなくもない。短編でもあり登場人物が少ないため、何となく吹子お嬢様何かあるんじゃないかと勘繰りつつ読むことができるが、夕日の思いに対して吹子は思うことが少なくかわいそうになった。吹子も夕日に対して少しは愛しく思う場面もあるのだが、夕日の抱いている想いと比べるとあまりに薄い気がする。この作品の衝撃は前半の夕日からお嬢様への敬愛が裏切られる場面と最後の一言であるタイトルの意味が分かった時である。ここでも夕日の感情に対して、こんな軽い気持ちでやったのかという対比的な衝撃だと思う。これが夕日の手記なく吹子の述懐のみであったらうまいタイトル回収の話だと思うだけの作品になっていたと思う。

 最後にこの話で悔しく思う部分は秘密の本棚の本の共通点に気づかなかったことである。読書が好きな人に対して悔しく思わせると同時に「もっとしっかり読んで次は気づくぜ!!」と思わせる、うまく煽ってる部分だと思う。この作品は元々別々で掲載されていたらしいのだがこの悔しさによって作者の他の作品が読みたくなる恐ろしい技術だと思う。この悔しさが本好きの人が没頭する理由の一端だと読み返して気づいた。

 

北の館の罪人

 内名あまりという少女が主人公である。莫大な財産を持っている六綱家の妾の子である。母親が死んで尋ねなさいと言われた六綱の家を訪ねる。そこでお金より住むところを選んだあまりは北の館に幽閉されている早太郎の身の回りの世話をすることになった。最初に読んだときに「あまり」という名前は名は体を表し過ぎていないかと思った。誰が名をつけたのか、キラキラネームより悲しい。キラキラネームは親の期待や嬉しさが込められている分マシではないかと思うくらいひどい。長女だったり一人っ子なら何かしら良い意味が込められているかもしれない期待があるが、妾の子なら良い意味など期待できそうにない。あまりを育てることに一生を費やしたという描写からそれなりに愛されていたのではないかと解釈したが、母親は本当にこの名前で満足だったのか謎に感じる。しかし私が寡聞なだけで結構よくある名前なのかもしれない。

それなりに住むところに満足しているあまりは早太郎からお使いをたのまれ色々買いに行く。色々あって六綱の家の事情や早太郎が絵を描いていることを知る。六綱家の事情はミステリーや犯罪捜査物が好きな私にとってはよくある話のように感じた。現実ではよくあることは決してないのだが、ミステリーや犯罪捜査物ではよくある。途中途中結構いい待遇受けているなと思っていたら本家の子である詠子がちょっと嫌味を言ってきた。しかし母親が死んでいることを知るとすぐに謝ってきた。可愛い。この話の中で一番好きな人物が詠子だ。可愛い。また色々あって早太郎が死ぬ。その後早太郎が描いていた絵が家族の絵だったことがわかる。特殊な技法を使っており時間経過によって色が変わるらしい。ここからこの話の衝撃部分が始まる。何とあまりが早太郎を殺したのだ。いい待遇だったじゃんと思わなくもないがもっとお金が欲しかったらしい。更に地位から逃げ出す人間が嫌いだという理由もあった。あまりの話には確かにと思う部分もあるが共感はできなかった。早太郎目線になるが光次郎は社長に満足していそうだったし、早太郎は絵が描ければよかった。詠子は死んだと思っていた兄が生きていた。あまりは遺産をもらってハッピーではいけなかったのか。ミステリーである以上できないとは思うが少しあまりが強欲に感じた。あと端々にいる詠子が可愛い。兄が死んでもっと会いに行けばよかったと思う部分は本当はいい子なんだろうなと感じる部分だった。

 早太郎が殺した人物を知っている部分は人によって怖く感じる部分でもあると思うが、私は受け入れているのだと感じ悲しくなった。あの絵はあまりへの当てつけなのか、特に意味があるわけではないのか。早太郎は表面上はいい人に見えるがあまりのように暗い感情を内に秘めていたのか。少なくとも少し突飛だと感じた発言がいい伏線になっていたし、平凡な言葉ではなかったので思い出しやすい場面だった。この話はあまりが感じた衝撃を読者も同じように感じる話だと思う。あまりの地の文から読者は裏切られたように感じた上で早太郎のダイイングメッセージのような絵が見つかり、二重の衝撃がある。あまりの豹変からこれが衝撃なんだと安心していたところを更に殴られた感じがする衝撃で楽しい。このまだあったのか!を感じるためにミステリーを読んでいる気がしなくもない。

 

山荘秘聞

 山中にある飛鶏館を管理している屋島守子が主人公である。前に雇われていた家の資金不足によって、今の館を管理する仕事をするようになったが客が来ないという悩みを抱えている。調べたところによると主人の妻が無くなり、館は妻のために建てたものだという。そのために妻を思い出す館に来ることが減ったのではないかと考えられていた。この作品は何ともまだ裏があるのではないかと思っている作品でもある。端的に内容についてまとめると、客が来ないことにしびれを切らした守子が遭難者を救出した際にそのことを話すことなく救助隊をお世話するのである。その上で真実に気づいた手伝いの子と遭難者に「レンガのような塊」を渡して黙っていていてもらうのである。この作品は異様にすっきりし過ぎているためもっと何かあるのではないかと思わずにはいられない。館のことも本当に妻のことが真実であるかははっきりしていないように感じる。考えすぎのような気もするが、考えすぎを考えるのも読書の楽しい部分であると思うので考える。前の二作と比べると衝撃が一回だけのような気もする。なので気づいていない衝撃がまだ残っていると思っているのだがわからない。なので感想もまだある気がするのに!というものになってしまう。もし何か分かった部分があったら誰か教えてほしい。

 

玉野五十鈴の誉

 また主人公がお嬢さまに戻った。小栗純香が主人公である。小栗家は彼女の祖母に支配されており純香も逆らうことはできずに親しい者を失ったが、玉野五十鈴という使用人をつけられ彼女といることによって勇気をもらったと感じた。しかし父親の親類によって純香はその地位を失い死の淵をさまよった。その後祖母が死んだことによって救出された。

 五十鈴が交換した本について「身内に不幸がありまして」と同じように何か意味があるのではないかと思うが私の頭ではわからなかった。また別のブログでしっかりと解釈してみたいと思う部分である。この話の肝は本当に五十鈴が弟を殺したのか、にあると思う。純香から見た五十鈴は新しい世界を見せてくれる友達のような存在。使用人から見た五十鈴は言われたことしかできない娘。どちらが本当の五十鈴なのか彼女が選んだ本からわかるのではないかと思うが一回読んだだけでは知識不足でわからなかった。

個人的には五十鈴が純香を救ったと信じたいが、そうなると五十鈴が罪を犯してしまうことになるので太白はかわいそうだが事故だと思いたい。

 この話は一貫して純香の視点から語られるので五十鈴の本心は最後まで分からない。父親に頼まれたから純香と友達のようになったのか、それとも本当に五十鈴が本心からあの態度であったのか。どちらともとれるが、タイトルにもある玉野五十鈴の誉は純香が思っていることなのだ。そこが最後に悲しく感じる部分だと思った。私は最後の場面に悲しさを感じた。純香が五十鈴が叶えてくれたのだと信じ切っていることなのか、五十鈴が本当に純香のために殺人まで犯すことになったからなのか。どちらかというと五十鈴を疑っていた純香が最後に信じるようになった場面が現実を見ることなく妄想を信じているように感じたからなのだと思う。

 

儚い羊たちの晩餐

 バベルの会はこうして消滅した から始まる。これまでの物語の端々に出てきたバベルの会。丹山吹子はこの読書会に行きたくないがために殺人を犯し、六綱詠子が所属し、屋島守子のかつて仕えた家のお嬢さまが所属し、小栗純香が所属していたバベルの会である。このバベルの会の会費を払えずに除名された大寺鞠絵の日記を追う形式である。大寺家が廚娘を雇うシーンもある。この話ではっきりするのがバベルの会はただの読書会ではなく夢想家たちの集まりであり、物語的な膜を通して現実と向き合う人の集まりである。このシーンで「玉野五十鈴の誉」で最後に悲しさを感じた理由が何となく理解した気がする。鞠絵は実際家であるために脱退することとなった。つまり幻想と現実の区別がつかない者が所属する団体だったのだ。なぜ鞠絵が変わっていったのかについて色々と解釈はあると思うが、私は祖父が父親に殺されたことを受け入れられなかったのではないかと思った。ただの物語が離れなくなったことからバベルの会に所属するにふさわしい人へと変わっていたのではないかと思う。アミルスタン羊について最初に読んだときにはわからなかったが、物語の流れで何となく察し、ザクロで確信に変わった。ずいぶんわかりやすく書いてくれるのですぐに人肉だとわかる。鞠絵はバベルの会の人々を食べようとしている。なぜ鞠絵はバベルの会の人々を食べようと思ったのか。少なくともバベルの会に対して、父親の犯行を知った後では所属するにふさわしいと思っていることが伝わる。退会させられた意趣返しのようなものなのか。バベルの会と大寺家にふさわしい人間になりたかった鞠絵は慣れたのだろうか。やはり祖父が亡くなったことを受け入れられない心とバベルの会から追放された恨みのようなものがあったのではないかと思う。最後になぜ唇の蒸し物なのか。唇、口は色々と纏わる言葉がある。その中のどれかに掛かっているのではないかと思う。

 

大寺鞠絵の手記を読んだものはまたバベルの会を復活させ同じような物語が始まるのではないかと思う。

 

 

儚い羊たちの祝宴 儚い羊たちはバベルの会に所属している人。祝宴は読書会を指し、そのままバベルの会を指しているのだと思う。バベルの会と書いて儚い羊たちの祝宴とルビを振っているようなものだと思う。私がこの作品を好きな理由はそれぞれ物語として完成していながら最後に一つにまとまる感じが気持ちよいからである。一冊の本で5冊読んだかのような満足感がある。とてもよかった。